湖上城跡における水城構造の再検討:最新発掘が示す水運・治水機能と近世城下町計画への影響
はじめに
近世移行期の城郭研究において、平城、特に大規模な水堀を巡らせた水城は、その防御機能に主眼が置かれがちでした。しかし、近年、水城が有する治水・水運機能、さらには城下町との一体的な経済的・行政的役割に関する多角的な視点からの研究が活発化しております。本稿では、畿内近世城郭の代表的な事例と位置づけられてきた湖上城跡(架空名称)における最新の発掘調査成果に基づき、従来の軍事偏重の解釈を見直し、その複合的な機能について深く考察いたします。
湖上城は、かつて広大な湖沼地帯に隣接する沖積平野に築かれたとされる城郭で、文献史料からは16世紀末に築城され、関ヶ原の戦い前後まで重要な拠点として機能したことが示唆されていました。これまでの調査では、総延長数キロメートルに及ぶ広大な惣構と水堀の存在が確認され、高い防御性を誇る軍事施設としての評価が定着していました。しかし、2020年度から継続されている城郭中枢部および惣構周辺の発掘調査では、これまでの認識を大きく覆す新たな発見が相次いでおり、湖上城が単なる軍事拠点ではなく、高度な水理工学に基づいた治水・水運システムを内包し、近世城下町形成に不可欠な役割を担っていたことが明らかになりつつあります。
最新発掘成果の概要
最新の発掘調査は、主に二つの調査区(中枢曲輪を取り巻く内堀区と、惣構北辺に位置する外堀・水路区)において実施されました。これにより、城郭の築造過程や改修履歴が詳細に解明され、特に水堀の構造、水門遺構、そしてそれに接続する水路網の実態が具体的に把握されるに至りました。
内堀区では、大規模な石積みによる護岸構造と、水堀底から検出された複数の堰板(せきいた)とそれを支持する柱材からなる水門遺構が確認されました。これらの水門は、単に水量を調整するだけでなく、船の航行を可能にする閘門(こうもん)構造に近い機能を持っていた可能性が指摘されています。
外堀・水路区では、惣構外郭を形成する大規模な外堀と、それから分岐して城下町域へと延伸する複数の細い水路が検出されました。これらの水路からは、当時の河川からの取水地点と排水経路を示す遺構が確認され、また、水路沿いには複数の船着き場跡や荷揚げ場跡が確認されており、当時の活発な水運活動を裏付けるものであります。(図1:湖上城跡主要水堀・水路配置図)
具体的な発見とその詳細な分析
大規模水堀と水門・閘門構造の検出
湖上城の内堀は、最大幅約40メートル、深さ約5メートルに達する規模を有し、その護岸には高度な石積み技術が用いられています。この石積みは、織豊系城郭に特徴的な野面積み(のづらづみ)を基調としつつも、場所によっては切り込みハギに近い緻密な構造も見られ、築城時の技術水準の高さを示唆しています。
特筆すべきは、内堀の複数の地点で検出された水門遺構です。これらは、底部に敷かれた強固な木製基礎材の上に、垂直に柱材が配置され、その間に複数の板を挿入して水量を調節する構造であったことが、出土した部材の分析から判明いたしました。特に注目されるのは、特定の水門遺構が二重の扉構造を有していた可能性です。(写真1:内堀から検出された水門遺構の一部)これは、水位差のある水路間での船舶の移動を可能にする、初期の閘門システムに類似する機能を持っていた可能性を示しており、従来の単なる防御施設としての水門認識を大きく塗り替えるものです。この構造は、当時の水理工学が単なる治水だけでなく、水運を考慮した高度な技術に達していたことを示唆しております。
船着き場と水運施設の発見
惣構外堀および城下町域へ延伸する水路沿いからは、合計7箇所の船着き場跡が確認されました。これらの船着き場は、木製の杭列によって補強された岸壁構造を有し、その周辺からは大量の土器や陶磁器、木製の生活用具、さらには積荷の一部と見られる木炭や穀物の残滓が出土しています。特に、中国製の青磁や朝鮮半島の高麗青磁、あるいは瀬戸・美濃産の陶器など、広範囲からの交易品が検出されたことは、湖上城が単なる地方の拠点ではなく、広域的な水運ネットワークにおける重要な結節点であったことを強く示唆しています。
これらの船着き場は、城の防御機能とは直接関係しない城下町への物資供給路として機能していたと考えられ、城郭が軍事・行政機能のみならず、商業・流通の拠点としても機能していたことを物語っています。(図2:船着き場跡と水路網の復元イメージ)
治水・排水システムの実態
発掘調査では、城内の排水路が城下町を経て外堀へと接続する複雑な水路網が確認されました。これらの水路は、単に城内の雨水を排出するだけでなく、周辺河川からの取水路と連携し、城内および城下町への生活用水供給、さらには堀の水を常時循環させることで清潔に保つためのシステムとして機能していたことが、水路の勾配や接続状況から推測されます。
特に外堀の水位は、周辺の湖沼や河川の水位変動に強く影響を受ける構造でありながら、城内への浸水を防ぎ、かつ水量を維持するための巧みな調整機構が随所に施されていたことが判明しています。これは、当時の築城技術者が、単に防御目的だけでなく、地域全体の治水計画や衛生管理まで視野に入れた、包括的な設計思想を持っていたことを示唆するものであります。
歴史的・考古学的意義と新たな解釈
湖上城跡の最新発掘成果は、近世移行期の城郭研究に以下の点で新たな光を当てています。
第一に、従来の「水城=防御拠点」という一元的な理解に対し、水運、治水、そして経済活動の拠点という複合的な機能を有していたことを明確に示しました。特に閘門に類する水門構造の発見は、当時の水理技術が、現代の想像以上に高度であったことを示唆し、織豊系城郭の築城思想における水利用の先進性を再評価する契機となります。
第二に、城郭が城下町と分断された存在ではなく、水路網を通じて一体的な都市システムを形成していたことを強く示唆しています。湖上城は、戦略的な防衛拠点であると同時に、物資の集散地であり、周辺地域の物流・経済を支える中心地でもあったと考えられます。これは、近世都市計画において、城郭が単なる権力の象徴ではなく、機能的な都市基盤の一部として設計されていた可能性を提起するものです。
第三に、今回の発見は、文献史料に乏しい水城の実態を考古学的に補完し、従来の歴史像に深みを与えるものです。特に、水運や治水に関する記述は文献には断片的にしか現れないことが多く、考古学的知見がその空白を埋める重要な役割を果たしています。
先行研究との比較や今後の研究課題
湖上城の事例は、讃岐高松城(水攻めで知られる)や大坂城の惣構水路など、他の大規模水城における水理機能に関する先行研究と比較することで、近世城郭における水利用の多様性と地域的特徴をより明確にできるでしょう。特に、琵琶湖周辺の水城や、河川交通が発達した地域に築かれた平城との比較研究は、今後の重要な研究課題です。
また、出土した木製部材の年輪年代測定や放射性炭素年代測定による精密な年代決定は、水路網の築造・改修時期を特定し、城郭の発展段階と社会経済状況との関連性をより深く考察する上で不可欠です。さらに、水路底から採取された花粉分析や珪藻分析は、当時の環境や水質、さらには周辺植生を復元する手がかりとなり、学際的なアプローチが求められます。
今後は、これらの水理施設が、具体的にどのような組織や技術者によって設計・維持管理されていたのか、文献史料の再検討と考古学的データの統合を通じて、その実態を解明していく必要があります。
結論
湖上城跡における最新の発掘調査は、近世移行期の城郭が単なる軍事拠点ではなく、高度な水理工学に基づいた治水・水運システムを内包し、周辺地域の経済活動を支える複合的な機能を有していたことを明確に示しました。この発見は、従来の城郭研究における軍事偏重の視点から脱却し、城郭を近世都市形成の中核として捉え直す上で極めて重要な学術的価値を持つものです。
今後、さらなる調査研究と学際的なアプローチを通じて、湖上城が織豊政権下の社会経済システムにおいて果たした役割の全容が解明されることを期待いたします。